概要

本レポートは、現代の金融システムにおいて急速に存在感を増している二つのデジタル通貨形態、すなわち暗号資産と中央銀行デジタル通貨(CBDC)について、その相違点と共通点を多角的に分析するものである。これらは単なる技術的な差異に留まらず、通貨に対する根本的な思想、すなわち分散型でパーミッションレスなイノベーションを志向する思想と、国家の信認に裏打ちされた中央集権的な安定性を志向する思想との対立を象徴している。
本分析を通じて明らかになる主な相違点は、発行主体、信用の源泉、価値の安定性、そして法的地位の四点に集約される。一方で、基盤技術の選択肢としての分散型台帳技術(DLT)の共有や、異なるシステム間の相互運用性の確保という共通の課題も存在する。特に、ホールセールCBDCの分野では、国際決済銀行(BIS)が主導する「プロジェクト・マリアナ」のように、分散型金融(DeFi)の概念を応用する試みも見られ、技術的な収斂の可能性が示唆されている。
結論として、暗号資産とCBDCは直接的な代替関係ではなく、それぞれが金融エコシステム内で異なる役割を担いながら共存していく可能性が高い。暗号資産は投機的資産および金融イノベーションの実験場として、CBDCは決済システムの安定性を支える公共財としての役割を、それぞれ確立していくと予測される。
目次
基盤となる概念:新たな通貨ランドスケープの定義
暗号資産とCBDCの比較分析を行うにあたり、まずそれぞれの正確な定義と法的文脈を確立することが不可欠である。また、より身近なデジタル決済手段である電子マネーとの概念的な混同を避けるため、その峻別も明確にする。
暗号資産(Crypto-Assets)の定義と法的整理
暗号資産の核心的な定義は、日本の資金決済に関する法律(以下、資金決済法)に規定されている。これによれば、暗号資産とはインターネット上でやりとりできる財産的価値であり、以下の三つの性質を持つものとされる 。
- 不特定の者に対して代金の支払いなどに使用でき、かつ法定通貨(日本円や米ドルなど)と相互に交換できること。
- 電子的に記録され、移転できること。
- 法定通貨または法定通貨建ての資産(プリペイドカードなど)ではないこと。
この法的整理は極めて重要である。特に三点目は、暗号資産が国家の通貨ではないことを明確に示している 。日本では、2019年の法改正により、従来の「仮想通貨」という呼称が「暗号資産」に変更された 。この変更は、これらが投機的な「資産」としての性格が強く、決済手段としての「通貨」とは異なるという認識を社会的に定着させるための、意図的な政策判断であった。この名称変更と並行して、規制当局は暗号資産が法定通貨ではなく、決済に利用するには受取人の同意が必要であることを繰り返し強調している 。この法的地位の明確化は、国家が発行する唯一のデジタル「通貨」としてのCBDCの導入に向けた道筋を、概念的・法的に整理する戦略的な動きと解釈できる。
中央銀行デジタル通貨(CBDC)の定義と分類
中央銀行デジタル通貨(CBDC)は、国際的に共通した三つの要件によって定義される 。
- デジタル化されていること。
- 円やドルなど、その国の法定通貨建てであること。
- 中央銀行の債務として発行されること。
この定義により、CBDCは物理的な現金や、民間銀行が中央銀行に預ける当座預金とは異なる、新たな形態の中央銀行マネーとして位置づけられる 。CBDCは、その利用対象によって主に二つの形態に分類される。
- ホールセール型CBDC(wCBDC): 金融機関間の大口決済に利用が限定される形態。既存の中央銀行当座預金システムの進化形と見なすことができる 。
- リテール型/一般利用型CBDC(rCBDC): 個人や一般企業を含む幅広い主体が日常的な支払いに利用できる形態。いわば「現金のデジタル版」であり、現在、日本を含む多くの国で議論や実証実験の主対象となっている 。
比較の前提:電子マネーとの峻別
暗号資産とCBDCの議論において頻繁に比較対象となるのが、Suicaや楽天Edyといった電子マネーである。しかし、両者と電子マネーは本質的に異なる。
- 発行主体と負債: 電子マネーは民間企業が発行するものであり、その価値は発行企業の負債となる 。一方、CBDCは中央銀行が発行する直接的な負債である 。
- 価値の裏付け: 電子マネーは、利用者が事前にチャージした法定通貨の価値をデジタルに記録した「法定通貨の代替物」である 。その価値は常に法定通貨と1対1で連動する。対照的に、CBDCは法定通貨そのものであり、代替物ではない 。
- 通用範囲と決済完了性: 電子マネーの利用は加盟店に限定されるが、CBDCは法定通貨として国内どこでも利用可能となる 。また、店舗が電子マネーを受け取ってから実際の法定通貨として入金されるまでには時間を要するが、CBDCでの支払いは現金同様、即時に決済が完了する 。
これらの相違点を明確にするため、以下の表に三つのデジタルマネーの特性を整理する。
表1:デジタルマネーの比較フレームワーク
特性 | 暗号資産 (Crypto-Assets) | 中央銀行デジタル通貨 (CBDC) | 電子マネー (Electronic Money) |
発行主体 | 民間企業、組織、または分散型プロトコル | 中央銀行 | 民間企業 |
法的地位 | 法定通貨ではない(資産) | 法定通貨(強制通用力を持つ可能性) | 法定通貨ではない(前払式支払手段) |
価値の根拠・安定性 | 裏付け資産がなく、需給により価値が大きく変動 | 法定通貨と1対1で価値が固定(安定) | 法定通貨と1対1で価値が固定(安定) |
利用範囲 | 加盟店に限定(受取人の同意が必要) | 原則として国内全域(普遍的利用) | 加盟店に限定 |
基盤技術 | 主にブロックチェーン/DLT | 集中型データベースまたはDLT(選択可能) | 主にICカードやサーバー(集中型) |
信用の源泉 | 技術(暗号、コンセンサスアルゴリズム)とネットワーク | 国家・中央銀行への信認 | 発行企業への信用 |
主な目的 | 投機、代替金融システムの構築、DeFi等のイノベーション | 決済システムの効率化、金融包摂、金融政策の有効性確保等の公共政策目的 | 小口決済の利便性向上 |
中核的相違点の多角的分析
定義上の違いを超えて、暗号資産とCBDCは思想的、実践的な側面で根本的に対立している。本章では、その中核的な相違点を多角的に分析する。
発行主体と信用の源泉:分散型ネットワーク vs. 国家の信認
両者の最も根源的な違いは、その信用の源泉にある。これは単なる発行主体の違いではなく、通貨システムが依拠する信頼のパラダイムそのものの違いを意味する。
- 暗号資産: ビットコインのように特定の管理主体を持たない分散型の暗号資産は、中央集権的な発行体を必要としない 。その信頼は、暗号技術、取引を検証し合意形成を行うネットワーク参加者、そして改ざんが極めて困難なブロックチェーンという技術基盤そのものに置かれる 。これは「コードへの信頼」と分散化された合意に基づくシステムである。
- CBDC: 国家の中央銀行によって排他的に発行される 。その信用は、物価の安定と金融システムの維持という中央銀行の長年にわたる役割と、国家そのものへの「全面的な信頼と信用」に由来する 。これは「制度への信頼」に基づくシステムである。
この対立は、通貨発行権という国家主権の根幹に関わる問題である。暗号資産、特に2019年に構想が発表されたリブラ(後のDiem)のようなグローバルな民間デジタル通貨は、既存の金融秩序への挑戦と受け止められた 。各国の中央銀行がCBDCの研究を加速させた背景には、通貨発行における主導権を民間や分散型ネットワークに奪われることへの強い警戒感があった。したがって、CBDCの開発は単なる技術革新ではなく、デジタル時代において国家主権を再確認・再強化するための戦略的な応答と位置づけることができる。
価値の安定性と裏付け資産:市場変動性 vs. 法定通貨ペッグ
通貨の三機能(価値の尺度、交換の手段、価値の保存)を果たす上で、価値の安定性は不可欠な要素である。この点で両者は明確に異なる。
- 暗号資産: 一般的に、特定の資産による裏付けを持たず、その価値は市場の需給バランスによって決定される 。そのため、価格変動(ボラティリティ)が非常に大きく、日常的な決済手段として利用するには大きな障壁がある 。この特性から、現状では決済手段というよりも、投機的な「金融商品」として扱われることが多い 。
- CBDC: その国の法定通貨そのもののデジタル表現であるため、価値は物理的な現金と完全に1対1で固定される 。その価値の安定性は、中央銀行が経済全体の物価安定を責務として負うことによって担保される 。この安定性こそが、CBDCが信頼できる決済手段として機能するための根幹である。
暗号資産の高いボラティリティは、投機家にとっては利益の源泉という「特徴(feature)」であるが、安定した価値の尺度を求める通貨システムにとっては致命的な「欠陥(bug)」となる。この一点だけでも、両者が目指す方向性が全く異なることがわかる。
法的地位と決済の通用力:合意に基づく決済 vs. 強制通用力
決済手段としての受容性においても、両者の間には決定的な法的格差が存在する。
- 暗号資産: 法定通貨ではないため、「強制通用力」を持たない。つまり、支払い手段として利用できるのは、受取人がその受け取りに同意した場合に限られる 。店舗は暗号資産での支払いを法的に拒否することができる。
- CBDC: 現金と同様に「強制通用力」を持つ法定通貨として発行されることが想定されている 。これが実現すれば、債務の支払いに対して受取人はCBDCでの受け取りを拒否できなくなり、国内での普遍的な受容性が保証される 。
この法的地位の違いは、CBDCが社会の基本的な決済インフラとしての役割を担うことを前提としているのに対し、暗号資産はあくまで補完的、あるいは代替的な選択肢に留まることを示している。
目的とユースケース:金融イノベーション vs. 公共財
両者がなぜ生まれたのか、その目的も大きく異なる。
- 暗号資産: 民間セクターから生まれ、既存の金融システムに依らない、自由でパーミッションレスな価値交換を目指す動きが原動力となっている。分散型金融(DeFi)、非代替性トークン(NFT)、メタバースといった新たな経済圏の基盤技術としての役割が期待されている 。また、ビットコインのように、発行上限が定められていることから、国家の金融政策から独立した価値保存手段、いわゆる「デジタルゴールド」としてインフレヘッジの役割を期待する向きも強い 。
- CBDC: 公共政策上の目的を達成するための「公共財」として構想されている 。その目的は多岐にわたり、決済システムの効率化、現金の発行・管理コストの削減、民間決済サービスへの過度な依存の抑制、マネーロンダリングや脱税といった不正行為の防止、金融政策の有効性確保、そして銀行口座を持てない人々への金融サービスの提供(金融包摂)などが挙げられる 。
これらの目的の違いは、設計思想にも反映される。暗号資産が検閲耐性や自由なイノベーションを優先するのに対し、CBDCは安定性、安全性、そしてAML/CFT(マネーロンダリング・テロ資金供与対策)といった公的要請への準拠を最優先する。
重なり合いと技術的共通性
根本的な思想の違いにもかかわらず、暗号資産とCBDCはいくつかの側面で共通点や技術的な接点を持つ。両者が全く無関係な存在ではないことを理解することは、将来の金融システムの姿を展望する上で重要である。
デジタル形態と電子的移転
最も基本的な共通点は、両者ともに物理的な実体を持たないデジタルな存在であることだ 。価値は電子的な記録として存在し、ネットワークを介して移転される 。この「非物質性」は、物理的な現金の制約から解放された、新たな通貨形態としての共通基盤である。
基盤技術の選択肢:ブロックチェーン/DLTの役割とアーキテクチャの違い
しばしば、暗号資産とCBDCは共に「ブロックチェーン技術」に基づくと説明されるが、その内実は大きく異なる。ここで本質的な違いは、技術そのものではなく、その運用思想、すなわち「パーミッションレス(自由参加型)」か「パーミッション(許可型)」かという点にある。
- 暗号資産の基盤: ビットコインやイーサリアムのようなパブリックな暗号資産は、その分散性と非中央集権性を担保するために、ブロックチェーンやその他の分散型台帳技術(DLT)を不可欠な基盤としている 。誰でもネットワークに参加し、取引の検証に関与できるパーミッションレスな設計が、その価値の根幹を成している 。
- CBDCの技術的選択: CBDCもまた、DLTを基盤技術として採用する可能性はある 。しかし、これは必須要件ではない。日本銀行の実証実験でも複数の台帳モデルが検証されたように、多くの中央銀行は従来型の集中型データベースとDLTベースのアーキテクチャの両方を検討している 。重要なのは、たとえCBDCがDLTを採用したとしても、それは中央銀行が参加者(検証者)を管理・許可する「パーミッション型」のシステムになるという点である 。これは、パブリックブロックチェーンの思想とは根本的に異なる。一部の専門家は、性能やプライバシーの観点から、ブロックチェーンはCBDCに最適ではないと指摘している 。
したがって、「ブロックチェーン」という言葉だけで両者を結びつけるのは誤解を招きやすい。真の技術的な分岐点は、中央集権的な管理を維持するか、分散的な自律性に委ねるかというガバナンスの設計思想にある。
相互運用性の探求:エコシステム間の連携という共通課題
異なるシステムが乱立し、相互に連携できない「サイロ化」は、デジタル社会における大きな課題である。この「相互運用性(インターオペラビリティ)」の確保は、暗号資産とCBDCの両エコシステムにとって共通の重要テーマとなっている。
- 暗号資産: 異なるブロックチェーン間で資産を移動させるための技術(クロスチェーンブリッジやアトミックスワップなど)の開発が活発に進められている 。
- CBDC: 設計段階から、既存の決済システムや、将来発行される他国のCBDCとの相互運用性が重要な要件とされている 。これにより、シームレスな国内外の決済を実現し、新たなデジタル上の分断を避けることが目指される。
この共通の課題は、将来的には暗号資産のプラットフォームとCBDCシステムが何らかの形で接続し、価値を交換する必要性が生じる可能性を示唆している。
世界のCBDCランドスケープ:最新動向と戦略的分岐
CBDCの開発は世界中で進められているが、その動機や進捗、設計思想は各国の経済的・政治的文脈によって大きく異なる。本章では、主要なプロジェクトの最新動向を概観し、その戦略的な違いを浮き彫りにする。
先行する中国:デジタル人民元(e-CNY)の現状と普及の課題
- 現状: 中国はCBDC開発において世界で最も先行しており、パイロット実験の段階を越え、多くの都市で一般市民向けの利用が開始されている 。公式アプリは国内外のアプリストアで公開され、2024年からは210以上の国と地域の携帯電話番号でウォレットが開設可能になるなど、外国人利用者の受け入れも進んでいる 。e-CNYは現金(M0)の代替と位置づけられ、利息は付かない 。
- 普及の課題: 公務員給与のe-CNYでの支払いや大規模な抽選キャンペーンなど、政府による強力な推進策にもかかわらず、利用は低調である 。最大の理由は、AlipayやWeChat Payといった既存の民間決済サービスが、既に中国社会に深く浸透し、豊富な機能を提供していることにある 。利用者や加盟店にとって、既存の便利なサービスからe-CNYに切り替える強いインセンティブが見出せない状況が続いている 。また、政府による取引監視へのプライバシー懸念も普及の障壁となっている 。
- 戦略的目標: 中国の狙いは国内決済に留まらない。取引データの完全な把握による不正金融の防止 、人民元の国際的な利用拡大、そして国際銀行間通信協会(SWIFT)に代わる国際決済網の構築が、重要な戦略目標として掲げられている。特に、タイやUAEなどと共同で進めるクロスボーダー決済プロジェクト「mBridge」は、その中核を担うと目されている 。
準備を進める欧州:デジタルユーロ・プロジェクトの設計思想
- 現状: 欧州中央銀行(ECB)は調査フェーズを終え、2025年後半まで続く「準備フェーズ」にある 。発行の最終決定はまだ下されていない。
- 設計思想: デジタルユーロは現金を代替するものではなく、補完するものとして位置づけられている。その目的は、欧州外の巨大民間決済事業者への依存を低減し、欧州の「戦略的自律性」を確保すること、そしてデジタル時代における公的マネーの役割(マネタリーアンカー)を維持することにある 。
- 検討中の主要な特徴:
- プライバシー: 現金に近いプライバシー水準を目指し、仮名化などの最新技術を用いて高いレベルのデータ保護を実現することが最優先課題の一つとされている 。
- 保有上限: 預金が商業銀行からCBDCへ大量に流出し、銀行の与信機能を損なう「金融仲介機能の低下」を防ぐため、個人が保有できる金額に上限を設けることが検討されている 。
- オフライン決済: 災害時や通信障害時でも利用できるよう、オフラインでの決済機能が重要な要件として研究されている 。
- 統一ルールブック: ユーロ圏全体で標準化された決済体験を提供するため、詳細なルールブックの策定が進められている 。
慎重な米国:プロジェクト・ハミルトンの教訓と政治的背景
- 現状: 米国は主要国の中で最も慎重な姿勢を示している。ボストン連邦準備銀行とマサチューセッツ工科大学(MIT)が共同で進めていた技術研究「プロジェクト・ハミルトン」は、あくまで技術的な実現可能性を探るためのものであり、既に終了している 。
- 技術的教訓: このプロジェクト(OpenCBDC)は、伝統的なブロックチェーン技術を用いずとも、毎秒180万件以上の取引を処理できる高性能なリテールCBDCが技術的に可能であることを示した 。一方で、設計にはビットコインのUTXOモデルなど、暗号資産から着想を得た概念も取り入れられている 。
- 政治的背景: 米国内では、政府による個人取引の監視や金融システムにおける国家の役割増大に対する強い政治的抵抗が存在する。議会では、連邦準備制度(FRB)が議会の承認なしにリテールCBDCを発行することを禁じる法案が提出されるなど、プライバシーを巡る懸念が大きな障壁となっている 。
実証実験段階の日本:「デジタル円」の現在地とCBDCフォーラム
- 現状: 日本銀行は2段階の概念実証を終え、2023年4月からパイロット実験に移行した 。発行の可否は未定であり、国民的な議論を踏まえて判断されるとしている 。
- アプローチ: 日本のアプローチは、段階的かつ官民連携を重視している点が特徴的である。パイロット実験では、実験用システムの構築と並行して「CBDCフォーラム」を設立。金融機関や決済事業者、ITベンダーなど幅広い民間企業が参加し、制度設計やユースケースについて具体的な議論を行っている 。これは、技術だけでなく、社会に受容されるエコシステムを構築しようとする意図の表れである。
- 技術的焦点: これまでの実験では、様々な台帳モデルの性能が検証された。現在は、エンドツーエンドでの取引処理や外部システムとの接続、オフライン決済などの周辺機能、資産のトークン化やDLTプラットフォームとの相互運用性などが検討されている 。プライバシー保護は重要な設計要件であり、取引台帳から個人情報を分離するアーキテクチャが採用されている 。
新興国の動機と先行事例:金融包摂の実現と現実
- 主な動機: 多く新興国や途上国にとって、CBDC導入の最大の動機は「金融包摂」である。銀行口座を持たない、あるいは十分に利用できない国民に、安価で安全なデジタル決済手段を提供することが目指される 。地理的に隔絶された地域への現金輸送コストの削減や、海外からの送金(レミタンス)の効率化も重要な目的である 。
- 事例:バハマのサンドダラー: 2020年に世界で初めて正式導入されたCBDC。離島の住民や銀行口座を持たない層への金融サービス提供を目的とした 。しかし、導入後の利用は極めて低迷している。その理由として、利用者側のインセンティブ不足、プラットフォームへの不信感、商業銀行が自社サービスと競合するサンドダラーの普及に消極的であったことなどが指摘されている 。現在、バハマ政府は商業銀行に普及を義務付ける強硬策に転じている 。
- 事例:カンボジアのバコン: 純粋なCBDCではないが、中央銀行が主導するDLTベースの決済システム。こちらは大きな成功を収めている。バコンは、それまで分断されていた国内の金融機関を相互に接続し、銀行口座の有無にかかわらず、異なる事業者のアプリ間で安価な即時送金を可能にした 。マレーシアからの送金など、国境を越えた利用も始まっている 。
これらの事例は、リテールCBDCの成否が、既存の民間決済インフラの質に大きく左右されることを示唆している。中国のように便利で安価な民間サービスが隅々まで普及している市場では、CBDCは価値を見出されにくい。一方で、カンボジアのように金融機関間の相互運用性の欠如という明確な「痛み」が存在する市場では、中央銀行主導のプラットフォームがその問題を解決し、広く受け入れられる可能性がある。この教訓は、先進国がリテールCBDCの導入に極めて慎重な姿勢をとる理由を説明している。
表2:主要なCBDCプロジェクトの状況
国・地域 | プロジェクト名 | 現状 | 主な動機 | 技術的アプローチ | 主要な課題・特徴 |
中国 | デジタル人民元 (e-CNY) | 正式導入・展開中 | 決済監視、人民元国際化、SWIFT対抗 | リテール型、集中管理型(技術非公開) | 既存決済サービスとの競合による利用低迷 |
ユーロ圏 | デジタルユーロ | 準備フェーズ | 戦略的自律性、マネタリーアンカー維持 | リテール型、プライバシー重視、保有上限、オフライン機能 | 金融安定への影響とプライバシー保護の両立 |
米国 | プロジェクト・ハミルトン | 技術研究終了 | 技術的実現可能性の探求 | リテール型、非ブロックチェーン型での高性能を実証 | プライバシー懸念による強い政治的抵抗 |
日本 | デジタル円(仮称) | パイロット実験中 | 決済システム高度化、民間イノベーション促進 | リテール型、官民連携の「CBDCフォーラム」が特徴 | 将来の社会実装に向けた具体的なユースケースの模索 |
バハマ | サンドダラー | 正式導入 | 金融包摂、現金コスト削減 | リテール型、DLTベース | 利用者のインセンティブ不足による極端な利用低迷 |
カンボジア | バコン | 正式導入 | 金融機関間の相互運用性確保、金融包摂 | DLTベースの決済システム(準CBDC) | 成功事例として注目、クロスボーダー決済への拡大が課題 |
主要なテーマ別論点とトレードオフ
暗号資産とCBDCを巡る議論は、いくつかの重要なテーマに集約される。これらのテーマは、技術設計における根源的なトレードオフを内包しており、社会的な合意形成が不可欠な領域である。
プライバシー vs. 監視:設計における根源的トレードオフとAML/CFT要請
現金が提供する高い匿名性に対し、デジタルな取引は必然的に記録を残す。CBDCの設計における最大の難問は、利用者が求めるプライバシーと、マネーロンダリングやテロ資金供与対策(AML/CFT)という法的な要請をいかに両立させるかである 。
このトレードオフに対するアプローチとして、多くの国で「段階的匿名性」が検討されている。これは、少額決済については高い匿名性を許容し、一定額以上の取引には厳格な本人確認(KYC)を義務付けるという考え方である 。技術的には、ゼロ知識証明や仮名化といったプライバシー強化技術(PETs)の活用が研究されているが、法執行機関が必要な場合には合法的に情報にアクセスできる仕組みが維持される 。
このプライバシーを巡る議論は、単に現金の匿名性が失われるという問題に留まらない。現在の民間のデジタル決済では、利用者のデータが商業目的で収集・利用されることが一般的である。公共財として設計されるCBDCは、データの商業利用を排し、厳格な法的・技術的保護の下で管理される可能性がある。したがって、適切に設計されたCBDCは、現金の匿名性には及ばないものの、現在の民間デジタル決済よりも高いレベルの「データ保護」を提供する可能性がある。これは、CBDCが監視ツールになるというリスクを管理しつつ、デジタル社会における個人のデータ主権を向上させる機会と捉えることもできる。
金融安定への影響:銀行の金融仲介機能とデジタル取り付けリスク
CBDCの導入は、既存の金融システム、特に商業銀行の役割に大きな影響を与える可能性がある。
- 金融仲介機能の低下(Disintermediation): もしCBDCが安全で利便性の高い資産と見なされれば、国民が預金を商業銀行から中央銀行のCBDCへと大量に移す可能性がある。これにより、商業銀行は貸出の原資となる預金を失い、経済全体の信用創造機能が損なわれる恐れがある 。このリスクを軽減するため、ECBなどが保有上限額の設定や利息を付けない(ゼロ金利)設計を検討している 。
- デジタル取り付けリスク: 金融不安が発生した際、預金者が安全なCBDCを求めて商業銀行から資金を引き出す動きが、デジタル上で瞬時に発生する可能性がある。物理的な現金の引き出しが不要なため、取り付け騒ぎが従来よりも遥かに速いスピードで進行し、金融危機を深刻化させるリスクが指摘されている 。
国際的な規制の潮流:FATFトラベルルールが与える影響
金融活動作業部会(FATF)は、暗号資産に関わる金融犯罪対策として、その国際基準を強化している。特に重要なのが「トラベルルール」(FATF勧告16)の暗号資産への適用である 。
このルールは、暗号資産交換業者(VASP)に対し、暗号資産の送金時に送金人と受取人の情報を収集・交換することを義務付けるものである 。これは、伝統的な銀行送金と同様の透明性を暗号資産取引にもたらすことを目的としており、交換所を介した取引の匿名性を事実上なくすものである。世界各国での導入状況にはばらつきがあるが 、この規制の潮流は、暗号資産エコシステムと伝統的金融システムとのコンプライアンス上の垣根を低くし、両者の制度的な類似性を高める方向に作用している。
デジタルデバイド:ユニバーサルアクセスの確保という課題
決済手段のデジタル化は、スマートフォンを持たない、あるいは操作に不慣れな高齢者や、インターネット環境が不十分な地域の住民などを、経済活動から排除してしまう「デジタルデバイド」を深刻化させるリスクがある 。
この課題に対し、CBDCの設計では「ユニバーサルアクセス」の確保が重要な目標とされている。具体的な対策として、通信障害時にも利用できるオフライン決済機能の開発 、スマートフォン以外の媒体(ICカードなど)の提供 、そしてデジタルリテラシー向上のための教育プログラムや相談窓口の設置などが検討されている 。
将来展望:共存、競争、あるいは収斂か
暗号資産とCBDCは、今後どのような関係を築いていくのか。本章では、これまでの分析を統合し、両者の将来像と、その相互作用がもたらす新たな金融のフロンティアを展望する。
暗号資産の進化:「デジタルゴールド」から分散型金融(DeFi)基盤へ
暗号資産の役割は、単なる決済手段の試みから、より専門化した方向へと進化している。
- 価値の保存手段: ビットコインは、2,100万枚という発行上限と非中央集権的な性質から、法定通貨のインフレに対するヘッジ手段や、国家の管理を受けないグローバルな価値保存資産、すなわち「デジタルゴールド」としての地位を確立しつつある 。
- DeFiの基盤: イーサリアムのようなスマートコントラクト・プラットフォームは、貸付、取引、資産運用といった伝統的な金融サービスを、仲介者なしに自動実行する「分散型金融(DeFi)」の基盤となっている 。これは、よりオープンで透明性の高い金融システムへの可能性を提示している。
CBDCの将来像:決済の公共財としての役割とイノベーションの土台
先進国におけるリテールCBDCは、既存の決済サービスと直接競合するよりも、より基盤的な役割を担う可能性が高い。
- 決済の公共財: CBDCは、安全かつ高効率な決済の基盤(レール)という「公共財」として提供される 。
- イノベーションの土台: 中央銀行が提供するこの共通基盤の上で、民間企業がAPIなどを通じて接続し、創意工夫を凝らした多様な金融サービスを展開する。これにより、特定の巨大IT企業による決済データやネットワークの寡占を防ぎ、健全な競争とイノベーションを促進することが期待されている 。これは、日本や欧州のCBDC設計思想の中核をなす考え方である。
技術的連携の可能性:ホールセールCBDCとDeFiの融合(Project Mariana)
「CBDC vs 暗号資産」という対立の構図を超え、両者の技術を融合させる動きが、金融の最前線で始まっている。その象徴が、国際決済銀行(BIS)とフランス、シンガポール、スイスの中央銀行が共同で実施した「プロジェクト・マリアナ」である 。
このプロジェクトは、ホールセールCBDCを用いた国際為替取引において、DeFiで用いられる自動マーケットメーカー(AMM)の技術を応用する実験を、パブリックブロックチェーンのテストネット上で行い、成功を収めた 。これは、中央銀行が自国通貨の管理を維持しつつ、DeFiプロトコルの持つ効率性や自動性を活用できることを示している。国家の信認に基づく通貨(wCBDC)と、分散型の金融インフラが相互運用可能になる未来を示唆しており、国際決済や証券決済に革命をもたらす可能性を秘めている。これは、競争ではなく「収斂」の強力な一例である。
この動きの根底には、「トークン化」という大きな潮流がある。暗号資産もCBDCも、本質的にはデジタルな「トークン」である。将来の金融システムは、単一のトークンが覇権を握るのではなく、中央銀行マネー、商業銀行マネー、証券、不動産といったあらゆる価値がトークン化され、単一または相互接続された台帳の上でシームレスに交換される世界へと向かう可能性がある。その時、CBDCは、このトークン化された経済における究極の安全資産、すなわちリスクフリーの決済手段としての役割を担うことになるだろう。
結論と戦略的提言
結論
本分析の結果、暗号資産と中央銀行デジタル通貨(CBDC)は、技術的な類似点を持ちながらも、その根源的な思想、目的、そして社会的役割において根本的に異なる存在であることが明らかになった。両者の違いは、発行主体がもたらす「国家主権」との関係性、それに伴う「価値の安定性」、そして「公共政策上の目的」の有無に集約される。
- 暗号資産は、国家の枠組みの外で生まれるパーミッションレスなイノベーションの産物であり、高リスク・高リターンの投機的資産、そして一部は「デジタルゴールド」としての非主権的な価値保存手段というニッチな役割を確立しつつある。
- CBDCは、デジタル時代における国家主権の進化形であり、決済システムの安定性と効率性を確保するための公共財として構想されている。
両者は互いを完全に代替するのではなく、異なるニーズに応える形で共存する可能性が高い。リテールCBDCは、決済インフラが高度に発達した先進国では普及へのハードルが高い一方、金融包摂や相互運用性に課題を抱える国々では大きな可能性を秘める。他方、ホールセールCBDCは、DeFiの概念を取り込みながら、先進国の金融市場インフラをより効率的かつ強靭なものへと進化させる、より現実的でインパクトの大きい変革となるだろう。
戦略的提言
この新たな金融環境に適応するため、以下の提言を行う。
- 政策立案者へ:
- 規制の明確化とバランス: イノベーションを阻害することなく、利用者保護や金融安定に関わるリスクを低減するための、明確で一貫性のある規制枠組みの構築を急ぐべきである。
- 官民連携の深化: CBDCを設計する際は、日本の「CBDCフォーラム」のように、民間事業者と緊密に対話し、現実世界のニーズや課題を反映させることが不可欠である。
- 社会的課題への正面からの取り組み: プライバシー懸念やデジタルデバイドといった課題に対し、技術的な解決策と並行して、透明性の高い方針説明と教育・支援体制の整備を一体で進めるべきである。
- 金融機関へ:
- 「トークン化」への備え: この変化をゼロサムゲームと捉えず、将来の金融システムが多様なトークン化資産で構成されることを見据え、伝統的なシステムとDLTベースのシステム双方に対応できる技術力と知見を蓄積すべきである。
- 新たな価値創造の模索: CBDCを単なる競合と見なすのではなく、その安定した基盤の上に、新たな付加価値サービス(例:スマートコントラクトを活用した自動支払い、マイクロペイメント)を構築するビジネス機会を積極的に探求すべきである。
- 政策議論への積極的関与: 傍観者ではなく、未来の金融インフラの設計者として、CBDCを巡る政策議論に積極的に参加し、安定的かつ革新的なエコシステムの形成に貢献することが、自らの将来の競争力を確保することに繋がる。